学会誌「自然災害科学」
自然災害科学47 Vol.17,No.3, 1998, p195f
「火山防災マップ」をどう生かすか
文教大学教授/NHK解説委員
伊藤 和明
岩手山の「火山防災マップ」が,このほど完成し,10月9日に公表された。
岩手山では,1995年9月ごろから微小地震や火山性微動が始まり,1998年になると,マグマの動きを反映する地震活動や微動が次第に活発になり,山頂部も南北方向に伸長するなど,本格的な噴火にいたるのではないかと懸念されてきた。こうした状況から,将来の噴火発生を視野に入れた防災対策を,すみやかに整備すべきだという声が高まっていた。その基礎情報として、今回の「岩手山火山防災マップ」が作成・公表されたのである。
岩手山は,西岩手と東岩手の2つの成層火山が結合した火山体である。「南部富士」とも呼ばれる東岩手(薬師岳)の方が新しく,有史以後の噴火は,1919年に西岩手で発生した水蒸気爆発を除いては,すべて東岩手火山で起きている。なかでも,1686年の山頂噴火では,2回にわたって火砕サージが発生,噴出物によって家屋が破損,降雨とともに泥流災害も発生した。1732年には,北東山腹の側火口から大量の溶岩を流出した。この溶岩流は「焼走り溶岩流」と呼ばれていて,いまは見学のための遊歩道も整備されている。
今回の防災マップは,(1)西側での水蒸気爆発の発生と,(2)東岩手(薬師岳)での山頂噴火の発生とを,それぞれ想定した災害予測図で,とりわけ東岩手火山では,1686年規模の大噴火を想定したものとなっていて,噴石や火山灰の降下する範囲,火砕流や火砕サージの及ぶ範囲,溶岩流の流下予測,火山泥流の流下予測などがきめ細かく図示されている。
この岩手山も含めて,これまでに他の活火山でも,噴火の歴史記録や過去の噴出物の調査をもとにして,「火山防災マップ」いわば「ハザードマップ」が作られてきたが,その数は,まだ17火山にすぎない。
日本列島には,現在86の活火山が存在する。このうち,北方領土にある10火山と,海底火山の12を除外すると,北方領土を除いた陸上には,64の活火山が分布していることになる。にもかかわらず,火山防災の出発点としてのハザードマップが整備されている火山が,わずか17ということは,陸上火山のほぼ4分の1にしか相当しないのである。
なぜハザードマップの整備が進まないのか。理由の一つは,そのようなものを公表して,火山噴火の危険性をうたえば,観光地としてのイメージが低下することを,地元の市町村が恐れるからであろう。たしかに,活火山の周辺は,どこも土地利用が進んでおり,とりわけ観光開発が積極的に行われている。だがよく考えてみると,火山の美しい景観や温泉などを,観光の資源として客を招くのであれば,招く側に,来訪者の安全を守る責務のあることはいうまでもない。むしろ,防災対策を整備していること自体を,観光の目玉に据えるぐらいの意識が求められるのではないだろうか。
10月25日に小噴火した北海道駒ケ岳では,森町をはじめとする火山周辺の5町が,すでに1980年,「駒ヶ岳火山防災会議協議会」を設立し,「駒ヶ岳火山噴火地域防災計画」を策定するとともに,将来の大噴火を想定したハザードマップを,全国に先駆けて作成するとともに,「駒ヶ岳火山防災ハンドブック」を全戸に配付している。
大沼国定公園という一大観光地を有しながら,駒ヶ岳の過去の大噴火に学び,しかも火山が静穏なうちにこうした対策を講じた点で,駒ケ岳周辺5町の取り組みは,全国活火山地域の模範として高く評価できるものであろう。
今回の岩手山も含め,ハザードマップは,ただ作って配付さえすればよいというものではない。これをいかに現実の防災に生かすかが,今後の課題である。いざという時に,もし活用することができなければ,せっかく作られたハザードマップも,文字通り「絵に描いた餅」に終わってしまうであろう。
1985年11月,南米コロンビアにあるネバドデルルイス火山が噴火したとき,山頂火口から火砕流が流出して氷河上に広がった。その結果,氷河の氷が融けて大規模な泥流が発生し,約2万5000人の犠牲者をだす大災害となった。
このとき,コロンビア政府は,ネバドデルルイス山の大噴火を想定したハザードマップを作成し,噴火の発生前に各自治体に配付していた。そして泥流は,ほぼ予測されたとおりに流れたのだが,災害を防ぐことはできなかった。その後調べてみると,ハザードマップを配付された自治体の側が,その中身を読み取る能力に欠けていたために,なんら実際の防災に生かすことできなかったという事実が明らかになったのである。
この事例を,私たちは将来への警鐘として受け止めねばなるまい。日本では,これまでにハザードマップが作成・公表された地域で,当該火山が大噴火した例はまだない。しかし,将来いつか必ず大噴火は発生する。その時に備えて,ハザードマップを受け取った側の市町村担当者や住民自身が,その内容を充分に理解しておくことが,火山防災の第一歩なのである。