学会誌「自然災害科学」

自然災害科学36 Vol.14,No.3, 1995, p187f

【巻頭言】[Preface]

将来の災害に備える

東北大学工学部附属災害制御研究センター
首藤 伸夫

ゼロから出発し,目標を定め,着実な努力を50年問継続し,経済的には世界の頂点に達した我が国を象徴する事件が続けざまに起こったのが,1995年であった。

オウム事件は,科学・技術の進歩が人間の心を安定させるとは限らないことを,高速増殖炉もんじゅの事故は,事前の技術を作り上げることの難しさ,巨大技術が思わぬ所で足を掬われかねないことを,見せつけた。

阪神・淡路大震災は,進歩した筈の技術でも,「いつも,どこでも,万全」ではないことを,実例で示した。何千年かに一度の自然外力には,やはり勝てない。あらゆる外力に対処できる構造物を作ることは不可能である。ではあっても,それに遭遇した人にとって,単に運が悪かったでは済まされない。そこで,自然災害にどのような心構えで対処するかが問題となってくる。今盛んに云われている災害に強い都市づくり,危機管理などが,総合的に取り入れられなくてはなるまい。

ところで,日本人は自然災害に対し,どのような反応を示すのであろうか。

河田恵昭氏(京都大学防災研究所)の調査によれぱ,「大災害があって8年間位は,こうした災害を無くして欲しいというのが行政機関への要望の第一位をしめる。15年も経つと,被災者でさえ40%は,もう大丈夫だろうと思い始める。3,40年経っても大災害の記憶は残っているが,100年経つとそれさえ怪しくなる」という。

こうした反応は,災害に対してだけではないらしい。

「かってバブル経済という社会現象があった。あの時につくづく感じたのは,人間の判断力とは,ある傾向が3年続けば当分続くと思い,5年続けば半永久的に続くと思い,10年続けぱ未来永久にこのままの状態が続くと思う程度の浅はかなものらしいということだった」とは,石川英輔氏の言である(大江戸エネルギー事情,講談社)。記憶の新しいうちでないと,防災事業への世間の支持は得られないものかも知れない。自然外力と人間社会の関わり合いの一つの表れが自然災害である。自然災害は進化する。人間社会が変化するからである。過去の実績だけで考えると,未来の災害を軽減できない場合がある。そこで,生ずるであろう災害を推測し,前もって手当をすることが望まれよう。殊に,それが大被害に成長しかねない場合には,なおさらのことである。

ただし,こうした警鐘を発すると,きまって「前例がない」,「いたずらに不安をそそる」,「そこで行われている経済活動に水をかける」という反論がある。冷静に対処すれぱ,僅かな出費で安全性をかなり高めうる方法を提案するつもりなのに,知らされない方を選びたがる。発生するまでは,「知らぬが仏」の境地を享受したいのであろうか。

そういえば,岡崎久彦氏が云っている。

「日本人というのは,過去の経緯ででき上がっているものを工夫して改善していく点ではおそらく世界一といえるくらいの能力を発揮するのですが,肌で感じないとなかなか理解しない国民なので,何もないところに理論的な整合性のある構築物をつくりあげるということになるとはたと当惑してしまうところがあるそうです。まして,それを,コンセンサスの上に築き上げていくこととなるとまずは不可能事ということになります」(戦略的思考とは何か,中公新書)。

今までの防災は,その場所の過去の実績に基づいて行われてきた。これからは,少なくとも自国民の経験を基にして考えることぐらいはして欲しい。阪神・淡路大震災や関東大震災の経験が,北海道南西沖津波や昭和三陸津波の経験が,余所事とならないことを望むぱかりである。

本来は,先手をうつ防災でありたい。しかし,開発は毎日の中であり,環境の良否を感ずることも毎日のことである。どうしても,ごく稀にしかない災害は置いて行かれる。気が付いたときには,災害に弱い体質になっている例が多すぎる。便利さ,快適さ,安全の三つのバランスの取れた街づくりを忘れず,これらが特別な事態が生じなくとも,日常的に反映し組み込まれて行くシステムを作り,運用して行かねばならない。