専任教員として着任し5年目の2020年、私は子どもを授かり翌年母になりました。育休を経て復帰し 1 年が経ちます。執筆に没頭できる時間は削られ、体力は奪われ、移動の自由は制限され、研究者としての成果を築く上では不利なことが増えました。一方、子育ては出産の日から今日まで一日も絶えることなく続く、日々のケアの積み重ねですから、これを継続することで研究者としての私にも大いに影響を与えてくれたと感じています。その一つが、今の避難の考え方における「ケア」の視点の欠如です。
いやいや「避難行動要支援者」を巡る議論は、近年充実してきているのではないかという声もあるでしょう。しかし、今の避難の考え方、すなわち「体力もあり合理的に行動できる多数者には、合理的判断を促す精度の高い情報提供を行い、体力がなく、非合理的な行動を取ってしまう「弱者」には、レベル 3 という時間的猶予と付加的な援助を加えればよい」という見立て自体が、多数者による一方的な視点の押しつけではないだろうか・・・と考えるに至りました。
ケアの倫理論者ジョアン・トロントは、ケアについて「わたしたちがこの世界で、できる限り善く生きるために、この世界を維持し、継続させ、修復するためになす、すべての活動」と定義し、それは「常に関係的」だと述べています。災害時の避難が「犠牲者の数を減らしたい」人のために行われるのではなく、「私たちができる限り善く生きるために」行われるものだとすれば、これはまさにケアの営みであり、強者だろうと弱者だろうと、他者との関係性なくしては行われないものだという見立てができるのではないでしょうか。その見立てに基づいて描ける避難行動モデルとはどのようなものでしょうか。
私自身も今答えを持ち合わせているわけではありません。ぜひ、参加者の方々と一緒に考えてみたいと思います。